年譜 | 1985~1990年度 | 1991~2004年度 | 2005年度~
History
年譜 | 1985~1990年度 | 1991~2004年度 | 2005年度~
中部地方は、伝統的に陶磁器の国内有数の産地であり、1970年代に第三の素材として注目されてきたニューセラミックスについても研究開発、生産が活発化するなど、セラミックスに関する技術集積に恵まれ、地域の活性化と先端技術・産業の育成のため、ニューセラミックスに大きな期待と関心を有していた。こうした中、名古屋通商産業局は、1981年にニューセラミックス懇話会(座長:豊田工業大学・斎藤 肇氏) を発足させ、ニューセラミックス振興センター(仮称)の設置などを提言した。
こうした動きに呼応して、中部経済連合会(会長:田中精一氏)は1983年5月の総会で「ニューセラミックスセンター構想の検討」を重点施策に指定し、中部地域への誘致に向け、センターの業務内容、設立時期、場所、資金など具体的検討に入った。
この間、中部経済連合会による通商産業大臣及び経済団体連合会長への設置要望書の提出、名古屋市による国への要望、愛知県議会による「先端技術振興に関するセンター設置についての意見書」の満場一致可決など、官民一体となったセンター誘致活動が積極的に展開された。
中央の動きとして、通商産業省で、1982年7月にファインセラミックス室(初代室長:中島邦雄氏)が新たに設置され、1983年6月にファインセラミックス基本問題懇話会(座長:前工業技術院長・石坂誠一氏)を設け、ファインセラミックス技術・産業の育成について検討された結果、1984年度予算に「ファインセラミックスセンター調査研究費」が認められ、ファインセラミックスセンター構想が大きく前進した。また、業界団体として、ファインセラミックスに関連するメーカー、ユーザーから構成されるファインセラミックス協会(現(一社)日本ファインセラミックス協会(JFCA))が1982年7月に設立された。
こうした経緯を踏まえ、1984年4月に中部経済連合会が中心となりファインセラミックスセンター設立準備協議会(会長:三宅重光氏)が設立され、設立に向け秒読みの段階に入った。この設立準備協議会は、1985年4月ファインセラミックスセンター設立総会と同時にその役割を終え解散した。
1985年4月22日、ファインセラミックスセンター設立総会が開かれ、直ちに財団法人としての設立許可を通商産業大臣に申請し、1985年5月7日に認可を得て正式に「財団法人ファインセラミックスセンター(JFCC)」が岩田弍夫会長((株)東芝相談役)、森田正俊理事長(トヨタ自動車(株)相談役)、阿久津一専務理事(中部経済連合会常務理事)以下の陣容で発足した。初代試験研究所長には、名古屋工業技術研究所(現 産業技術総合研究所・中部センター)出身の奥田博氏が就任した。同時に、JFCC の建物が完成するまでの仮住まいとして、名古屋市東区の名古屋栄ビルディングに事務所を開設した。
翌1986年5月には、東京虎ノ門に東京駐在事務所を開設し、官公庁、中央経済界、関係団体との折衝拠点として活動した。
1985年、1986年の2年間は、主として資金調達(寄付金、出損金、補助金)、人材の確保、建屋の建設、試験研究設備の選定など1987年4月の本格的な事業開始に向けての準備期間であった。
募金活動は、地元中部地区とそれ以外に大別される。中部以外については、専任の担当者を東京に常駐させ、(社)経済団体連合会の協力を得て、各種団体や個別企業にお願いすることとなった。また、寄付を行う企業等が、税制上の優遇措置が得られる試験研究法人(後に特定公益増進法人)の証明を1985年6月に受けることができ、募金活動を進める上で潤滑油の役割を果たすことになった。さらに、1985年10月に愛知県、名古屋市からの建設費補助が決定された。
資金調達は当初80億円を目標としたが、建屋建設のための土地が無償貸与から購入に変わったことに伴い、110億円に変更された。資金の用途としては、当初、土地約30億円、建物約20億円、設備約20億円、基本財産約25億円、運用財産約15億円を予定していた。資金調達は関係機関のご支援、関係者の懸命の努力によって数年継続して進められたが、当初投資額として調達できた金額は、中部地区企業各社から39億円、中央の団体、企業各社から16億円、中部自治体(愛知県、名古屋市、岐阜県、三重県)から41億円、国(日本自転車振興会補助金)から5 億円、合計101億円であった。この101億円の使途は、土地取得(17,505m²)に約30億円、建屋(事務・展示棟、研究棟、実験棟)の建設に約20億円、研究設備・機器購入に約23億円、基本財産に19億円、運用財産に9億円を充てることとなった。
JFCCのように自前の設備と研究者を有する研究機関としては、基本財産の果実により運営する従来型の財団運営方式は不可能なため、従来の財団とは異なる運営方法が求められた。JFCC は、設立構想の段階から事業型財団を目指し、活動に必要な資金は、自助努力で稼ぎ出すことを理想とされた。このように、JFCC は設立当初からハードルの高い経営目標を掲げて運営されたが、この目標を達成することは容易なことではなかった。
人材の確保については、設立当初には、設立準備協議会のメンバーを主体に13名で立ち上がったが、企業のご協力を得て、1987年4月の本格的事業開始時には常勤役員を含め総員77名(うち、出向者43名、新人12名)となった。また、当財団では、理事会、評議員会のほか、運営について総合的に審議する「総合委員会」、試験研究所の運営・研究開発に関して審議する「試験研究所運営委員会」、中小企業の技術向上と振興発展に関して審議する「中小企業振興委員会」の3委員会を発足させた。第1回理事会は1985年7月、第1回評議員会は1986年3月にそれぞれ開催され、以後臨時に開催される場合を除き、通常年2回、3月に次年度の事業計画・収支予算を、6月に前年度の事業報告・収支決算を審議するため開催された。
以上のように、設立からのこの2年間は、資金調達、建屋建設、設備選定など持てる勢力を本格立ち上げに向けて投入してきたが、その間にも国からの調査研究テーマの受託、ファインセラミックスフェアの共催、ファインセラミックス国際フォーラム及びファインセラミックス国際ワークショップの開催などの事業を着実に実施した。
名古屋市熱田区六野二丁目4番1号の地に1985年10月、村田敬次郎通商産業大臣らの出席のもとに起工式を行った建屋の建設は、計画どおり1987年3月に完成し、同年4月に竣工式、産官学の関係者および報道関係者らを招いての竣工披露、参議院商工委員会一行の視察、一般公開などを行った。開設時の来訪者は、国内約12千人、海外約1千人にのぼった。開所時点での研究設備は、高性能電子顕微鏡など最新鋭の機器137機種であった。
1986年10月に高温超電導物質が発見されて世界的に超電導ブームが勃発した。高温超電導物質は、将来のファインセラミックス産業の発展に貢献することが期待され、JFCC は名古屋通産局、中部経済連合会等と連携して(財)国際超電導産業技術研究センター(ISTEC)の超電導工学研究所名古屋研究室の誘致運動を展開し1988年4月に誘致を実現した。
財団運営の財源を主として外部からの研究・試験の受託収入に依存するJFCC は、受託事業収入の獲得に向け努力を重ねた。国予算を財源とする受託については、通商産業省ファインセラミックス室のご指導、助言のもとに受注に注力した。一方、民間企業からの受託は、設立間もないこともありJFCCの実力が未知数であるため、中部地区の特定の支援企業からの研究受託を除けば、一般企業からの研究受託は少なく、依頼試験・機器利用が中心であった。こうした経緯から国・民間を併せた受託収入の水準は多くはなかったが、それでも年々増加し、設立5年目の1990年度は約7億円であった。
設立5年を契機に、これまでの実績を踏まえ、今後の事業活動の進め方についての基本的な考え方として①組織の活性化、②受託研究事業の高度化、効率化、③標準化の推進、④出向者の確保を骨子とする「事業活動基本方針」を1990年11月の臨時理事会で決定した。
1990年度は、当財団の役員人事にとって大きな転機となった年でもあった。すなわち、JFCC設立以来、理事長として尽力された森田正俊理事長が、1991年3月の理事会で退任し、その後任に大橋正昭氏(トヨタ自動車(株)専務)が就任した。試験研究所長は奥田 博氏の後任に名古屋工業技術研究所出身の磯谷三男氏が就任した。1990年度末の常勤役職員は、企業等からの出向者は減少したが、プロパー職員の採用により、83名(うち出向者26名)で、この4年間の増員は6名であった。